日本の歴史的合戦の兵力規模ランキングを調査する

歴史上、多くの合戦がある中で、最大の合戦は何なのか?
最有力候補、関ヶ原の戦いの順位はいかに?
合戦と合戦による合戦(?)が今始まる・・・!

天下分け目の関ヶ原!!
東軍と西軍に分かれた大決戦!!
大河ドラマなどで見ても、激熱の回ですね。

そんな中で、私は思いました。
日本歴史史上、動員人数が最大の合戦って、関ヶ原?

他の候補を挙げると、やはり日本を二分する戦いだから・・・
もしかして、大昔の壬申の乱が入ってくる!?
あるいは、明治維新あたりの鳥羽・伏見の戦いか!?

気になったら調べるしかない!
今はChatGPTがあるから、すぐわかるだろう!
ですが、全然駄目でした・・・今回もとても苦労しました。

原因は、第一に、はっきりした情報が残っていないこと、
第二に、誇大広告になっている情報があることでした。

そんな中でも、ランキングを決めるべく、以下の前提のもと、精査を続けました。

① 完全に情報がないものは除く(応仁の乱の中の合戦など)
➁ 数日の合戦というより、何年も続いた騒乱は除く(応仁の乱など)
③ 数値情報はあるが、盛りすぎているものは、専門家の分析情報などを参考に低く見積もる。なお、特に太平記は盛りすぎという情報多数。

なお、日本国外が主戦場だった近代の戦争は除きます。
また、今回はすべての情報が「諸説あり」なので、以下「諸説あり」という表記は省きます。

では、いよいよランキングです!
少し予想してみてから読むと、さらに面白いと思いますよ!

第10位 賤ヶ岳の戦い

合戦規模 8万人(羽柴軍 5万人 対 柴田軍 3万人)

画像:Wikipedia 賤ヶ岳の戦い

第10位は、賤ケ岳の戦い!織田家中の戦いなので、もっと小規模だと思っていましたが、大規模だったのですね!

【解説】

賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)4月に近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市、旧:伊香郡木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いです.

この戦いは、織田家の勢力を二分する激しいものでした。背景には本能寺の変、清州会議、秀吉派と反秀吉派の対立などがあります。
この戦いで勝利した秀吉は、亡くなった織田信長が築いた権力と体制を継承し、天下人への第一歩を踏み出しました。

第9位 西南戦争

合戦規模 9万人(政府軍 6万人 対 薩摩軍 3万人)

画像:Wikipedia 西南戦争

第9位は、西南戦争!戊辰戦争の陰に隠れがちですが・・・戊辰戦争は様々な合戦の集合なので、1回の合戦では、こちらの方が上回ります。政府軍は当然ですが、薩摩軍もかなり多いですね。

【解説】

西南戦争は、1877年に起きた最大かつ最後の士族反乱で、維新の三傑として知られる西郷隆盛を盟主として、鹿児島士族を中心にした武力反乱です。

明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模であり、日本最後の内戦とも言えます。

明治六年政変で下野した西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設しました。これは西郷と共に下野した不平士族を統率することと、県内の若者を教育することを目的としていました。しかし、外国人講師を採用したり、優秀な私学校生を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れており、強固な軍隊を創造することを目指していました。

一方、中央政府は廃刀令や金禄公債証書発行条例を発布し、旧武士の特権を奪う政策を進めていました。これが契機となり、九州各地で不平士族による反乱が発生しました。西南戦争は、これらの反乱を含む一連の出来事の中で展開されました。

1877年1月29日から9月24日まで続いた西南戦争は、約80,000~100,000人の戦力が携わり、6,400人が戦死しました。最終的には明治政府(新政府軍)が勝利し、西郷隆盛を含む多くの指導者が命を落としました。

第8位 第二次長州征伐

合戦規模 10万8千5百人(長州藩 3500人 対 江戸幕府 10万5千人)

画像:Wikipedia 長州征討

第8位は、第二次長州征伐・・・規模よりも、この兵力差!
桶狭間の戦いなんて目じゃないくらいの大逆転が生まれたのが、この戦いです。さすがに誇張だと思われるのですが、結構正確な数が記録されているようで、否定的な情報もなかったため、採用しました。

【解説】

第二次長州征伐は、江戸時代後期(1866年)に江戸幕府と長州藩が戦った戦いです。この戦によって、わずか3,500人の兵力であった長州藩が幕府の15万人の大兵力に対して勝利しました。

この戦いは、長州藩が勝利したことにより、幕府の威信が地に堕ち、江戸幕府の終焉を告げる出来事となりました。

第二次長州征伐は、日本史において重要な転換点であり、薩摩藩との連携や高杉晋作の活躍など、多くの興味深いエピソードが含まれています。

この戦いは、長州藩の武力と政治的な巧みさが結集した結果と言えるでしょう。

第7位 元寇:弘安の役

合戦規模 12万5千人(鎌倉幕府 4万人 対 元軍・高麗軍 8万5千人)

画像:Wikipedia 元寇

第7位は、二回目の元寇である、弘安の役です!
日本国内の勢力同士の合戦ではないため迷いましたが・・・なんとなく採用しました!(おい)。
なお、弘安の役は、元軍15万とされていますが、4割ほどが水夫であると思われたため、その人数は除きました。

【解説】

元寇は、鎌倉時代に2度起きた、日本とモンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍との戦いです。モンゴル帝国は13世紀初頭から中国大陸を席巻していたモンゴル民族の国であり、元寇は5代目のフビライの時に行われました。高麗は朝鮮半島に10世紀初頭にできた国であり、この元寇の際にはモンゴル帝国の前線基地となりました。最初の戦いは1274年に起きた文永の役であり、2度目の戦いは1281年に起きた弘安の役です。両戦いとも日本の勝利で幕を下ろしています。

文永の役(1274年):
フビライは日本を征服しようと考えた理由は、日本がとてつもない富で溢れているという情報があったからです。
イタリアの商人マルコ・ポーロは『東方見聞録』で日本を純金で溢れた国と紹介しており、フビライは日本の服属を望んでいました。
元軍は対馬・壱岐を侵略し、博多に上陸しましたが、幕府軍の反撃によって敗退しました。

弘安の役(1281年):
フビライが本気を出し、元と高麗の兵力は合わせて約15万人にも上りました。しかし、日本軍は奮闘し、モンゴル軍に大きな損害を与え、戦いは日本の勝利に終わりました。

第6位 小牧長久手の戦い

合戦規模  13万人(徳川軍 3万人 対 羽柴軍 10万人)

画像:Wikipedia 小牧・長久手の戦い

第6位は小牧長久手の戦いです!
なぜかあまり有名じゃない気がするけど、豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した、天下分け目の戦いなのです!
徳川家康って、タヌキ爺のイメージもありますが、こういう負けそうな合戦でも、逃げずに、やってやるよ!的なパターンが多いので、そこはかっこいいところだと思っています。

【解説】

1582年、織田信長が本能寺の変で倒れた後、信長の天下統一事業を引き継いだのは羽柴秀吉でした。しかし、信長の次男・織田信雄は秀吉の権力増大に反発し、徳川家康と同盟を結びます。

1584年、秀吉は信雄・家康連合軍と小牧・長久手で対峙します。秀吉は圧倒的な兵力で家康を攻めようとしますが、家康は巧みな戦術で秀吉軍を翻弄します。

戦闘は膠着状態に陥り、両軍は大きな損害を被ります。最終的に、秀吉は信雄と単独講和を結び、家康との決戦は回避されました。

小牧・長久手の戦いは、天下分け目の戦いと称されるほど大きな影響を与えました。

秀吉は天下統一を目前にしながらも、家康の存在を脅威と認識するようになりました。
家康は秀吉に匹敵する実力者であることを証明し、その後の天下統一への足掛かりとしました。

第5位 関ヶ原の戦い

合戦規模 15万人 (東軍 8万5千人 対 西軍 6万5千人)

画像:Wikipedia 関ヶ原の戦い

第5位は・・・・・1位候補の関ヶ原が、なんとここで登場です・・・!第3位とかならともかく、第5位!

【解説】

関ヶ原の戦いは、1600年10月21日に、美濃国(現在の岐阜県関ケ原町)の関ヶ原を主戦場として行われた野戦です。

この戦いは、徳川家康を中心とした東軍と、石田三成を中心とした西軍が対峙しました。豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の政治抗争が激化し、力を強めた家康に反発した三成が挙兵し、全国の有力大名を巻き込んだ戦いとなりました。

この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊しました。家康の権力掌握は江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれました。

第4位 島原の乱

合戦規模 16万1千人(幕府側 12万4千人 対 一揆軍 3万7千人)

画像:天草四郎ミュージアム様 「島原の乱図屏風」を再現したジオラマ

第4位は・・・・・まさかの島原の乱!
有名ではあるけれど、まさかこれほどの規模とは!
基本的に、「幕府軍」とか「政府軍」とかは、10万規模で出してくるので、ランクインしやすいのですが、島原の乱については、一揆側の人数もすごいため、この順位になったのだと思います。

【解説】

島原の乱は、1637年に九州の島原・天草地域で起きた一揆です。この一揆は、重税やキリスト教弾圧に反発した人々が起こしたもので、約37,000人が参加しました。島原の乱は日本史上最大規模の内乱であり、その後の幕政にも大きな影響を与えました。

島原の乱の原因は大きく2つあります。

原因の一つは、キリスト教弾圧です。 九州は南蛮貿易の拠点であり、キリスト教が広く布教されていました。しかし、豊臣秀吉の時代からキリスト教は弾圧され、禁教令が出されました。島原・天草地方は特に多くのキリスト教徒がいた地域であり、弾圧が本格化していました。

原因のもう一つは、過酷な重税です。 島原では藩主の松倉氏が巨大な城を築いたり、天草でも農民たちに重い負担を強いました。特に石高(稲の収穫量)が高めに設定され、農民たちは苦しめられていました。

一揆の総大将は天草四郎(本名:益田時貞)という青年でした。彼はカリスマ的な人物で、一揆軍の結束を強固にしました。

島原の乱は長期にわたって籠城戦が行われ、最終的には女子供も一人残らず討たれる悲劇的な結末を迎えました。

画像:Wikipedia 島原の乱(一揆軍が籠城した原城址

第3位 大阪夏の陣

合戦規模 22万人(徳川軍 16万5千人 対 豊臣軍 5万5千人)

画像:Wikipedia 大坂の陣(大坂夏の陣図屏風)

第3位は、大阪夏の陣です!
ついに合計兵力20万を越えました!
夏の陣は、冬の陣の後ですので、戦国最後の合戦かもしれないですね。
豊臣家は滅亡し、日本一のもののふ、真田幸村も、この合戦で散りました(泣)。

【解説】

大阪夏の陣は、元和元年(1615年)夏に行われた戦いで、徳川家康率いる軍勢が冬の陣での和議に反して大坂城内堀を埋めたことに対する豊臣方の反発から発生しました。

この戦いは、豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦いで、淀君(豊臣秀頼の母)と秀頼は自害し、豊臣氏は滅亡しました。

大坂夏の陣は、戦国時代の中で最も規模が大きな戦いの一つであり、真田幸村や毛利勝永らの奮戦によって家康の本陣が崩されるなど、激しい戦闘が繰り広げられました。

第2位 小田原征伐

合戦規模 25万6千人(豊臣軍 20万人 対 北条軍 5万6千人)

画像:小田原市 様 小田原合戦

第2位は・・・これもまさかの小田原征伐です。
第2位になった要因は・・・豊臣側が、これでもかと言うほど兵を集めたことと、北条軍も、農民などからも兵力を集めたことによると思います。

【解説】

小田原征伐は、天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)を降した歴史的な戦役です。

この戦いは、北条氏と真田氏(上杉氏)の間での領土紛争を豊臣秀吉が仲裁しましたが、沼田領裁定の一部について、北条氏が武力で履行を覆したこと、及びそれを正当化したことが豊臣政権の惣無事令違反と看做され、北条氏は豊臣氏の軍事力による攻撃を受けました。

小田原城の攻囲戦が著名であり、この戦役は小田原城攻略戦だけではなく、並行して行われた後北条氏領土の掃討攻略戦も含まれています。

第1位 大阪冬の陣

合戦規模 29万人(徳川軍 20万人 対 豊臣軍 9万人)

画像: 「大坂冬の陣図屏風」デジタル想定復元公式 様

栄えある日本史上最大規模の合戦第1位は・・・
なんと大阪冬の陣です!!!
この後に発生する夏の陣よりも、規模においては上回っていたようです。

【解説】

1614年、方広寺鐘銘事件をきっかけに、家康は豊臣家への征伐を決定します。

家康は20万の大軍で迫り、冬の陣が始まりました。劣勢の豊臣軍は真田信繁らの活躍で徳川軍を苦しめますが、家康の巧みな戦術に追い詰められ、講和を申し込みます。

豊臣家は外堀を埋め、人質を差し出すなど大きな打撃を受け、家康への従属を余儀なくされました。一方、家康は豊臣家を弱体化させ、天下統一への道を大きく前進させました。

補足1

いかがだったでしょうか?
予想通りでしたでしょうか?それとも意外でしたでしょうか?

今回、頑張ってランキングを決めましたが、惜しくもランキング外になったり、信憑性がなく不採用になった合戦が多々ありますので、一部分ですが、それらについて少しふれておきます。

・壬申の乱
 規模4万人で、ランキング外となりました。

・一ノ谷の戦い
 源平合戦最大の戦いだった可能性がありますが、10倍くらい盛ってくると言われる太平記の情報であるため、対象外としました。

・承久の乱
 誇大広告的な情報だと判断し、対象外としました。

・鎌倉の戦い
 誇大広告的な情報だと判断し、対象外としました。

・箱根・竹ノ下の戦い
 誇大広告的な情報だと判断し、対象外としました。

・糺河原の合戦
 情報がなかったため、対象外としました。

・豊島河原合戦
 誇大広告的な情報だと判断し、対象外としました。

・湊川の戦い
 誇大広告であったとしても、5万程度であるため、ランキング外でした。

・筑後川の戦い
 日本三大合戦の1つです。かなり大規模だったと思われますが、太平記の情報であるため、対象外としました。

・応仁の乱
 様々な合戦の集合であることと、期間があまりに長すぎるため、対象外としました。

・応仁の乱の相国寺の合戦
 4万程度と思われるため、ランキング外となりました。

・応仁の乱の御霊合戦
 情報がなかったため、対象外としました。

・第一次長州征伐
 戦闘が発生していないため、対象外としました。

・戊辰戦争
 会津戦争などの集合であるため、対象外としました。

・鳥羽・伏見の戦い
 総兵力2万で、ランキング外となりました。

・会津戦争
 戊辰戦争最大の戦いだと思われますが、総兵力4万で、ランキング外となりました。

補足2

調査の中で、各時代の全体的な印象として、以下のような印象を受けました。

【鎌倉時代】
とにかく、太平記が兵力を盛ります。10倍くらい盛ってると よく言われています。ただ、大規模な戦いは多数あったと思われ、正確な情報がなく、非常に惜しいです。

【室町時代】
とにかく、人数の情報がないです。

【戦国時代】
とても情報がしっかりしています。

【明治維新】
とても情報がしっかりしています。

情報をしっかりまとめてくれていた時代の人には、本当に感謝しかありません。
最後までお読みいただきありがとうございました!


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