日本最大のクーデータともいわれる明治維新。
260年続いた徳川幕府が滅亡し、新たな新政府が誕生しました。
その中心となったのは、長州藩と薩摩藩です。
若き日のヒヨコは、ある時、こう思いました。
「長州って今の山口県、薩摩って今の鹿児島県あたりだよな。山口県と鹿児島県がクーデター起こして、日本政府ひっくり返すって、無理なのでは?」
これについて、尊敬していた頭の良い先輩に聞いてみたところ、
「そういう時代の流れだった」
という回答でした。
それを聞いて、ヒヨコは、外国から見たこともない黒船が来ていたし、変わろうという雰囲気だったのかな、と思い、調べたりはしませんでした。
それから、何年もたちました。
ヒヨコは思いました。
「やっぱり、おかしい。説明になっていない。」
迷探偵になったヒヨコは、調査を開始しました。
ちなみに、今回の調査、今までで一番時間がかかりました・・・。2ヶ月かかりました。この情報だけで、2時間のテレビ番組の特集作れると思います。放送関係者の皆様、ご連絡お待ちしております(笑)。
まずは謎ポイントを考える
そこで、今回、調べたところ、すぐに見つかる答えは、以下のようなものばかりでした。
・ 長州と薩摩には優秀な人物がいたから
・ 錦の御旗が長州と薩摩側に立ったから
・ 近代的な装備を持っていたから
・・・しっくり来ません。
優秀な人物については、結果からみるとそうですが、優秀な人物は幕府側にもいたでしょうし、それだけでは勝てないと思います。
鳥羽・伏見の戦いにおける錦の御旗は、ドラマでは常に見どころですが、実際にそれで敗退したわけではないと思います。そもそも、お互い天皇の御所を武力で囲んだりしている人たちですので、錦の御旗が立とうが、勝って取り返せばよいだけです。
近代的な装備については、その点は大いにあったと思いますが、幕府側も一部はそれなりの近代的装備を有していました。
何が分かれば、我々は、納得できるのでしょうか。
結果から逆に考えると、当時、新政府側(長州・薩摩側)は、
「国力・軍事力的に拮抗でき、朝廷が味方になり、さらに多くの藩が抵抗しない状況」
であったと思われます。
この状況であれば、明治維新が成功しても不思議ではなさそうです。
つまり、
① なぜ国力・軍事力的に拮抗できたのか?
➁ なぜ朝廷が(新政府側の)味方になったのか?
③ なぜ多くの藩が新政府側に抵抗しなかったのか?
が、分かれば、納得できそうです。
そこで、今回は、上記の①~③を調べてみました。
ですが、その前に、そもそもの動機について話したいと思います。
そもそもの動機
明治維新における新政府側で、倒幕を目指した主な登場人物は、長州藩、薩摩藩、朝廷(というか岩倉具視)です。
それぞれ、最初から倒幕を考えていたわけではありません。
尊皇攘夷は、イコール倒幕ではありません。
多くの人は、最初は朝廷と幕府、各藩が一致団結して、国難を乗り越えることを考えていました。公武合体とかですね。
しかし、最終的には、倒幕を決意することになります。
まず長州藩ですが、割とはっきりしません。
地理的に、西洋諸国にボロボロにされアヘン戦争にも負けた中国が近かったため、危機感がとても高かったこと、松下村塾での教えにより尊皇攘夷思考が強かったこと、安政の大獄での吉田松陰の死が、出発点にあると思われます。
決定的になったのは、幕府により二度も長州征伐が行われ、しかも、二度目は勝利できたことから、倒幕に傾きました。
次に、薩摩藩です。
藩として、元々、日本の政治に対する影響力を増したいという姿勢が伺えますが、薩摩藩には、2つのターニングポイントがあったと思われます。
第一のポイントは、第一次長州征伐の前に、西郷隆盛が、勝海舟と話した際に、幕府の内情を聴き、「公武合体の思想は不可能に近く、新政権の樹立が必要である」と判断した(と思われる)時です。
第二のポイントは、第二次長州征伐失敗後に開かれた、四侯会議という枠組みの中で、薩摩藩の権力者・島津久光と将軍 徳川慶喜が決裂した時です。これにより、薩摩藩が倒幕を決めたと思われます。
最後に、朝廷の岩倉具視です。
岩倉具視は、一貫して「朝廷が政策決定、幕府が政策の実施」という考えであったと思われます。
しかし、孝明天皇が亡くなり、徳川慶喜が朝廷を軽視して、外交事案をすべて決め始めたように見えたため、倒幕を決意したものと思われます。
謎1:なぜ国力・軍事力的に拮抗できたのか?
国力に関しては、幕府は、実質400~700万石くらい・・・平均とって550万石くらいだった思われます。
一方の長州藩と薩摩藩は、当時は、実質石高ではベスト10に入る大きな藩でした。
長州藩は、実質97万石で、支藩である徳山藩や岩国藩も含めると、120万石相当でした。
薩摩藩は、実質86万石でした。また、琉球との貿易や、黒砂糖の栽培で利益を得ていました。さらに、アメリカの南北戦争の影響で、イギリス・フランスが日本産の綿を購入したため、莫大な利益を得たと言われています。
とにかく、石高のみでいうと、合計220万石 vs 550万石くらい で、拮抗しているとはとても言えませんが、相手にはなりそうです。
当然、幕府側には味方の藩がいるため、微妙な比較ですが、長州・薩摩側にも、最終的には強力な味方の藩がいます。また、積極的に参戦する藩が少なかったことを考えると、それなりに意味のある比較だと思います。
軍事力についてですがが、長州藩も薩摩藩も、外国と戦ったことをきっかけに、近代的な軍備を整えていました。その上、前述のとおり、それなりの財力があるにもかかわらず、さらに膨大な借金をして軍備を整えていました。
まとめると、元々とあった石高、貿易による利益、貿易よる最新軍備の準備、借金によるさらなる軍備拡充により、国力・軍事的に、幕府に対抗できたと思われます。
もう一つ、第二次長州征伐と鳥羽・伏見の戦いを見ると、長州、新政府側は、指揮官の兵法的な何かが圧倒的に優れいていたと思われるのですが、そこはよく分かっていません。気になったら、調べて教えてください(おい)。
謎2:なぜ朝廷が味方になったか
これについては、別に朝廷全体で味方になったわけではありません。岩倉具視と、岩倉派の公家が味方になっただけです。
さらに、岩倉具視と諸藩が、クーデターにより朝廷を占拠して、王政復古の大号令を出したので、外から見ると、朝廷が味方になったように見えたのだと思われます。クーデターは成功したため、実際に、朝廷が味方になったともいえるのかもしれませんが・・・。
まとめると、倒幕は岩倉具視がクーデターを起こして朝廷を占拠するという、強引な方法により、朝廷が味方(?)になったと思われます。
謎3:なぜ他の藩は抵抗しなかったのか
全部の藩について調べるのは大変なので、主な藩だけを上げます。
・広島藩(芸州藩)
・紀州藩
・尾張藩
広島藩は、分かりやすいです。抵抗しないどころか、長州藩・薩摩藩の味方になりました。
そもそも、第二次長州征伐で、広島藩は、幕府側に加わりませんでした。外国相手に戦った長州を征伐するのはおかしいという考えだったようです。藩主浅野も幹部の辻将曹も、長州征討に反対し、幕府・朝廷に反対を申し出ています(そのため、辻将曹は幕府から謹慎を命じられてしまいます)。
次に、紀州藩ですが、こちらは情報が少ないのでかなり推測を含む形となりますが、紀州藩は、幕府側として抵抗しようとしたと思われます(実際、軍を移動させていたようです)。しかし、戦場に到着する前に、鳥羽・伏見の戦いで幕府側が負けてしまい、しかも、幕府が朝敵とされてしまった上、将軍が江戸に逃亡したため、もはや、戦うことができなくなったと思われます。
最後に尾張藩です。
正直、最大の謎は尾張藩です。
尾張藩は、徳川御三家の筆頭であり、当然、幕府側につくべきものと思われますが、抵抗しないどころではなく、なんと、長州・薩摩藩側につきます。さらに、各藩に、幕府側につかないように指示して抵抗を抑えており、明治維新成功の大いなる貢献者になっています。
藩主ではありませんが、当時の事実上の尾張藩の権力者は、徳川慶勝です。はっきり言って、この人が、一番謎でした。
理由として、「外国への対応が重要である最中に、内戦などしている場合ではないと考えたから」という理由が多くあげられていました。しかし、これは間違っていると思います。
徳川慶勝が新政府側につくと、幕府側はかなり不利にはなりますが、将軍と幕府が断固戦うと決断すれば、東側の幕府勢と西側の新政府とで、国を二分する大規模な内戦になっていたと思います。つまり、大規模内戦を防いだのは、徳川慶勝というより、将軍・徳川慶喜や勝海舟だと思います。
「鳥羽・伏見の戦いで新政府側が勝利したため、もはや幕府に勝ち目無しと判断した」というのも理由としてありそうですが、これも違うと思います。なぜなら、尾張藩は、鳥羽・伏見の戦いの前の、王政復古の大号令のクーデターの時点で、新政府側として参加しているからです。
初代藩主から受け継ぐ尊皇思想も理由としてあがっているようですが、はっきり言って弱い理由です(専門家から怒られそう・・)。まず、尊皇というより、岩倉具視のクーデターな訳ですから、尊皇も何もあったもんじゃないです。さらに、幕府側も(本音はどうあれ)大政奉還を行うことで、天皇中心の政治を示していました。極端なことを言うと、この時期になると、思想の差というのは小さく、紆余曲折を経て、皆、尊皇開国派な訳です。
よって、幕府側と新政府側の明確な違いは、『どちらが新体制の中心となるか』という違いだけです。
結果から判断するに、この点において、徳川慶勝は、幕府ではなく新政府側が中心となった方が良い(マシ)と考えたと思われます。
要因が、新政府への期待なのか、幕府への不満なのかですが、幕府への不満の方が大きかったと思われます。不満の要因は、
① 江戸中期以降、幕府と尾張藩の仲は悪かった。
➁ 第一次長州征伐の際、無理やり総督にさせられた挙句、和平で解決し、兵を解散したところ、幕府から文句を言われ、さらに関係が悪化した。
③ 第二次長州征伐については、反対の立ち場だった。
①については、幕府から信頼されておらず、藩主を幕府が派遣するようになっていたようです。
➁ついては、後の将軍・慶喜も、慶勝の解兵には不満であり、「総督(慶勝)の英気至りて薄く、芋(焼酎)に酔ひ候は酒よりも甚だしきとの説、芋の銘は大島(西郷)とか申す由」と不満を述べていたそうです。
このように、悪化していた尾張藩と幕府の関係が、王政復古の大号令のクーデターで、尾張藩が新政府側についた理由だと推測します。
余談ですが、第一次長州征伐の際の、幕府側の担当である尾張藩と薩摩藩、そして相対した長州藩の関係者全員が、その後、一丸となって幕府と戦うことになるのは、運命なのか奇妙なのか・・・不思議な感じがします。
参考:経過
1840年 アヘン戦争、孝明天皇が即位。
1841年
1842年 アヘン戦争の情報から、異国船打払令を廃止
1843年
1844年
1845年
1846年
1847年
1848年
1849年
1850年
1851年
1852年
1853年 黒船来航
1854年 日米和親条約、安政の大地震
1855年
1856年
1857年
1858年 井伊直弼が大老に就任
朝廷の許可が出る前に状況で日米修好通商条約
10月25日 家茂が第14代将軍に就任
戊午の密勅(水戸へ改革を促す)、安政の大獄
1859年
1860年 桜田門外の変。攘夷の約束とともに和宮の将軍家降嫁
1861年
1862年 京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まり、
朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼。
尊皇攘夷派の三条実美が力をつけ、長州が幕府への使者に
三条実美を指名したことで、両者に関係ができる。
急進的攘夷派が朝廷を支配し始める。
上洛・参内する大名は増加の一途をたどり、
京都の政治的求心力が大きくなる。
会津藩主松平容保が新設の京都守護職に就任。
生麦事件発生。
土佐と長州に薩,摩の尊攘派も加わった運動で、幕府に即刻
攘夷を迫る新たな勅使を江戸に遣わすことが決まる。
幕府は、開国継続か攘夷かで大論争。
1863年 国事参政、国事寄人が新設され、尊王攘夷派公卿と
長州藩が京の政局を主導し、実美らが権勢を誇った。
朝廷は急進派公家が独占。交渉役の慶喜に即刻攘夷を要求。
5月10~7月24日 下関戦争(長州藩の攻撃と外国の報復)
8月15日–17日 薩英戦争
薩摩、会津らにより八月十八日の政変
参預会議が発足するが、わずか2カ月で瓦解。
1864年 7月19日 都を追われた長州藩が御所を襲撃する禁門の変。
8月5日頃 下関戦争2:海峡封鎖に対する連合艦隊の攻撃
9月 西郷は大坂の専称寺にて、軍艦奉行を罷免されて約2年
の蟄居生活を送る勝海舟と会う。勝の意見を参考にし
て、長州に対して緩和策で臨むことにした。
長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握る。
10月5日 幕府の奏請を受けた孝明天皇はに条約を勅許、
第一次長州征伐(征長軍総督は徳川慶勝)
11月 長州藩は禁門の変の責任者を処罰し幕府に謝罪恭順。
12月15日 功山寺挙兵
俗論党政権に対し高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵。
12月27日 征長軍はついに解兵令を発し、長州征討は終了。1865年 3月17日、長州藩の敬親は武備恭順の対幕方針を確定。
家茂は朝廷に長州再征を奏上したが、許可されなかった。
西郷は長州再征に協力せず、朝廷工作を進める。
11月 兵庫開港要求事件(日米修好通商条約を含む
安政五カ国条約の条約勅使を要求される)
1866年 薩長同盟。
ただし、長州藩の復権を薩摩藩は支援するという
内容であり、倒幕ではなかったと思われる。
第二次長州征伐。
第14代将軍家茂死去、慶喜が第15代将軍に就任。
幕府と長州の休戦協定。
孝明天皇崩御。
1867年 明治天皇が14歳で即位
四侯会議。ここで慶喜が政治的に薩摩に勝利。
10月 大政奉還
11月9日 討幕の密勅
1868年 1月3日 王政復古の大号令(慶喜に辞官と領地返上を要求)
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争開始)
江戸開城、会津戦争、五箇条の御誓文、明治元年
1869年 函館戦争
1870年
1871年 廃藩置県